──北方領最北端。  旧領主の屋敷、現勇者の屋敷がそこにはあった。  地形上最も侵攻されにくい場所に建てられた石造りの屋敷の背面は崖ではあるが、柔らかい潮風を運ぶ海に開けた開放的な空間であった。両翼を広げた鳥の様な来客を包む形状、見上げればこちらに崩れ落ちてくると錯覚する重厚さ。その様は領主の屋敷として、来る者に荘厳さを与えるに充分な出来であった。  小高い場所で周囲は草原という見晴らしの良い地形は侵攻された際に早期発見、先手を打つ為にこしらえた名残だろう。  魔王を無力化した功績、今後とも魔王を管理下に置き勇者の名の元に幽閉すると言う提言を断れる訳もなく、アファナ連邦国家首脳陣は否応無く勇者に従った。  勇者は魔王を地下牢獄に囚えた後、二束三文の形だけの売買を済ませ北方領の一部、最も他国から遠く他者と接触しない土地を指定し領地と屋敷を譲り受けた。ただ自分が生活する場として領地を手に入れた勇者は領主と呼べるものではなく、領民は存在しない。勇者と魔王が生活する為だけの名ばかりな領地であった。幸いであったのは連邦国家成立後は長い平和のお陰で北方領の領主が移居しており、労せず空き家を入手出来た事だ。  領地と言っても屋敷と、その周辺の僅かな土地。そして魔王。勇者にとっては充分な報酬であった。  一つ誤算があったのは、領地の外に住む近隣の人間が勇者を正式に領主として認識している事である。  領地を手に入れてから半月は忙しかった。  最寄りの都市グアンザットからは商人が訪ね、名目上連邦国家に名を連ねたせいで領主として外交も余儀なくされた。貴族も訪れ挨拶を交わす日々、それが落ち着いてきた頃北方領の筆頭領主が勇者を訪ねてきた。その際に自分はただ平穏に暮らしたいだけだと伝えた所、個人的な付き合いには干渉できないが自身の属領として形式上整えれば煩わしい外交は全て引き受けると言われ、勇者は迷う事なく了承した。  恐らく勇者を手元に置きたいという筆頭領主の思惑はあったのだろうが、勇者にはどうでもいい事であった。それにより自身に興味のない社会的な繋がりが激減出来る事が何より重要で、屋敷に居を構えてから半月を経て漸く落ち着いた時間を手にする事が出来た。  テラスに面した大きなガラス窓から陽光が差し込む明るい一室。陽光のあたらない場所に置かれた椅子に、項垂れるように頭を垂れる魔王がいた。魔王の部屋に入る事を躊躇しない勇者は扉を叩く事すらせずに足を踏み入れる。 「領主というのは忙しいものだな」  魔王は地下牢獄より連れ出されてから、一向に口を開かない。領地の選定、旧領主邸と魔王の売買、連邦国家首脳陣の許可。全てを済ませ夜間に城付きの馬車を走らせてから半月と少しが経過しようとしていた。これまで煩雑とした日常を送り、魔王の様子を確認できない日もあったが予想よりも問題がなく魔王はただそこに、虚ろに存在していた。勇者には誂えた寝台を使用しているのかもわからない。魔王は常に椅子に腰掛けて頭を垂れて動かなかった。 「先程北方領を取り纏める筆頭領主が来たが、形式上属国として貰う事とした。これで不要な折衝もなくなる。漸く休めるよ」  投げかける言葉は露と消える。魔王の長い黒髪は床付近まで伸びており、毛先が揺らいでいる。窓を開くと、魔王の肩にかかる髪が零れ落ちた。この数日他人に心を砕き、自分と魔王に割く時間がなかった事を今になり思い出す。一心地ついた勇者は久しぶりに魔王を眺める事がで出来た。 「やはり綺麗だ」  勇者は自身の所有欲が満たされている事を理解して、安堵の息を漏らした。詠嘆の息だったかもしれない。陽光の差し込む額縁に、光から隠れるように頭を垂れる魔王は一枚の絵画であった。惜しむらくは未だボロ布を纏う魔王だか、それすらも絵画たらしめる要因となるのは如何な身なりであろうと魔王。その絶対的な存在感は虚ろに成り得ようと浮世離れした存在に他ならず、勇者の求めた魔王に相違ない。 「まだ諸用がある。大人しくしていろ」  後ろ髪を引かれないのは魔王が自分の物だと理解しているからだ。残された絵画を保存するように、勇者は部屋の扉を静かに閉じて去っていった。