「痛ってぇーー━ー!!」 唐突に宙に現れた九十九は重力に従い、鈍い音を立てて石造りの床に落ちた。 「ぬうっ!! 背骨っ、背骨がやばい!! 砕けたから、絶対砕けたから!!」 叫びながら腰を押さえ、のたうち回る九十九を2つの影が見下ろしていた。 「……嘘ぉ」 「ほらね!? 言った通りでしょ!?」 わぁい、と少女は神の頭の上ではしゃぎまわり、横に浮く女性は信じられないとその場で呆けている。 「いや、心配しろよ!! 背骨はやばいって!! 半身不随になるんだからな!!」 「うわっ、話しかけてきましたよ」 「ふふん、元気ってことは成功したってことだよね。さすが私〜」 ぎゃあぎゃあと喚く九十九を気にも止めず、上機嫌な少女は神の頭から飛び降りた。その高さは優に6メートルは超えている。建物であれば凡そ三階の高さであり、常人であれば怪我で済む高さではない。その光景に常識人である九十九は死を連想してしまう。当たり前だ、大した高さから落ちたわけではない自分ですら半身不随になる危険性と痛みを感じたのだ。その直後に明らかな高所から飛び降りる少女を見ては無事に済む訳がない。それを認識した瞬間、九十九は痛みを凌駕した。反射的に動く体は石畳の床を強く蹴る。その振動は確かに腰に響き、膝から力が抜けるが気合で持ちこたえ、少女の落下点へと走った。 「ふえ?」 不確かな足取りで、真っ直ぐな瞳を向ける九十九は少女が床に落ちるより早く落下点に到達し少女を確かに抱きとめ、直後に限界を迎え両膝を床に叩きつけた。不思議な事に抱き止めた瞬間に彼女から重さを感じる事はなかった。 「初めまして、お嬢さん。あんなに高い所から飛び降りては危ないですよ」 じんわりと重さを感じ始めた少女をゆっくりと床に降ろし微笑み、彼女の手を取る。九十九はどんな状況でも女性の前で爽やかさを忘れない。床に叩きつけた膝の痛み、腰の痛みを思い出し全身が震える激痛の中でも完璧な笑顔を作り出す。しかし、如何に完璧とは言え九十九は人間、生理現象は防げない。痛みのせいで全身が冷え脂汗が額から流れ落ちる。 「あ……。ありが、とぅ……」 「礼などいりません。貴方の為に駆けつけたのですから」 「わたしのため……」 全身の震え、悪寒を感じるも爽やかさを保つために首から上のみ全身全霊で取り繕う。彼女の手からは震えも伝わっている。それでも余裕を見せ、微笑む九十九に少女は目が離せない。痛みを耐えているためか僅かに疲労を感じさせる目元、自分の為に駆けてきたからか流れる汗、紡がれる真摯な言葉。それは少女が夢想する契約者など取るに足らない程に完璧であった。 「申し遅れました。私は九十九一と申します。お嬢さん、貴女の名前を聞かせてください」 何故だが少女は九十九の声に逆らう気が起きず、口を開いてしまう。 「ピ、ピスピ……です。ピスピ・シャロン、です……」 「初めまして、ピスピ様。貴方を守る剣、九十九はじ──」 「ピスピ様にいつまで触れとんじゃ我ぇ!!」 未完成だからこその魅力がある事を九十九は理解している。ミロのヴィーナスが最たる例だ。だからこそ思う。完璧とは9割の完璧さと1割の未完成さからなるべきだと。その未熟な一割こそ完璧には肝要なのだ。そしてそれが弱点でもある。体中の痛みと眼前の少女に全神経を総動員していた九十九に、認識外からの攻撃を対処する術はない。勢いを殺さず落ちてきた女性はこめかみを的確に膝で撃ち抜くと九十九の意識を刈り取った。そのままトンと軽い音を立て何事もなく床に降り立つとピスピの前に屈み顔を覗き込む。 「大丈夫ですか、ピスピ様。この下郎に変な事を言われませんでしたか?」 「……うん、だいじょぶ。それよりせっかく呼べた契約者蹴り倒してどーすんの?」 「も、申し訳ありません。急にピスピ様に抱きつく為に走り出した変態を見て取り乱しました」 「……治療して休ませておいてね」 「わかりました。ピスピ様は?」 「契約者も来たし、他の人達に伝えてくる」 二人を置いてトコトコと神の間から立ち去るピスピは何かを確かめるように、無意識に人差し指で唇に触れる。 「つくも、はじめ……かぁ」 異性に手を取られたのも抱きとめられたのも初めてな少女は脳内に焼き付いた爽やかな笑顔を思い出していた。所謂一目惚れであった。 「……痛くない」 ついに痛覚も死んだか。やれやれ、困ったものだと体を起こすと何不自由なく動く事ができた。足も簡単に持ち上がる。腰をつねると痛かった。 「治ってる……?」 いくら完璧だろうが人間だ。こうも早く痛みが引くとは考えにくい。だが人体には未解明なことなど幾らでもあるのだ。これが人体の神秘か。また一歩完璧に近づいてしまったと九十九は溜息をこぼした。だが何故か記憶にないこめかみに痛みが残っている気がする。 「起きましたか、下郎」 「君は?」 「ピスピ様の付き人をしているロゼッタ・シャロンです」 「シャロン?」 「ピスピ様とは遠縁ですが血縁なので」 シャロンの方が名字らしい。起こした体の向きを変え、九十九は寝台に腰掛け、ロゼッタを見る。完璧な九十九は手を抜かない。《完璧な目》を発動、しようとして止めた。この全てを見通す目は、目は口ほどに物を言うを前提にした能力である。見やった彼女は修道服を身に纏い黒い長髪を隠すようベールを深く被り、額の前の留具が目を隠すように置かれていた。目がしっかり見えないのでは完璧を名乗れない。今の九十九に解るのは身体情報、言葉遣いから推察できる性格程度であった。 ──身長162、体重52。所謂美容体重と呼ばれる範囲だろう。体型のベースが解れば服の上からでも大凡のスタイルも予測できる。胸も十分に目視でき、羽織ったケープを持ち上げている。腰回りが膨らんでいるのも確認できた。上から84-61-82だろう。大凡理想体型と言えるが、惜しむらくはしっかりと目が見えない事と生地の厚めな服を着ている事だ。これでは断定出来ず、口に出すのが憚られる。それでも雰囲気も加味すれば恐らく年下、17歳程度だろうか。 無自覚に立ち上がり、彼女の前で屈み手を撮った。が、その取った手で九十九の右頬が叩かれた。 「触れるな、下郎」 「これは失礼しました。魅力的な女性だったのでつい……」 見上げた彼女は侮蔑の目を眼下へと向けている。そんなものは見慣れている完璧な九十九は平然と侮蔑を受け、彼女を真っ直ぐに見返す。 「申し遅れました。私は九十九一と言います」 「知っている」 凛とした声は意図して低くしているのだろう。貫禄と呼ぶには幼い声は可愛らしいものである。 「ピスピ様から?」 「……貴様が来た時に私もその場にいた」 「重ね重ね失礼を。ピスピ様に目を奪われていました」 「…………そうだろうな。まさかいきなり走り出してピスピ様に抱きつくなんて、本来なら処分する所だ」 「所でピスピ様は?」 「………………時に下郎、何故貴様は当然の様にピスピ様と呼んでいるのだ」 「私は完璧ゆえ立場を弁えるのが得意なのです。一目見ただけで彼女が他者から敬われる存在なのを理解しました」 その神秘性を感じた一端は抱きとめた時に重さを感じなかった事、眼前に立つ彼女が初めにピスピ様と呼んだ事、血縁であり歳上でありながら付き人をしている事。そこからピスピ様が一般的な立場にいないのは理解にたやすい。 「……これが契約者」 「契約者?」 小さな唇が囁くように独り言を零す。だが、九十九は零すこと無く言葉を拾う。何故なら完璧だからだ。しかし拾った言葉は新たな声に遮られ空を切った。 「ロゼぇ……」 ロゼッタの後ろ、九十九の正面。扉のない部屋の入口側、柱脇。顔をちらっと出したピスピはすぐに顔を柱に隠してしまう。 「来ましたね。どうされました?」 九十九に向けた声とは違い、柔らかい声音でピスピを迎えた彼女は柱の裏へと歩いて行った。ロゼッタが目線を切った事で、九十九はようやく立ち上がる。石床の上に惹かれた絨毯はあるものの、それでも膝は痛かった。さして離れた場所ではない為、話し声は聞こえる。だが、九十九は敢えて話を聞かないように室内を見回した。紳士は聞く必要の無いことは聞かないものである。 見渡した室内は無骨ながら装飾もあり、それなりに良い建物なのは把握できた。石造りの壁に床、木天井。赤い絨毯は床の硬さを伝えるが、それでも柔らかさを感じる厚みがある。不思議な事に天井には照明がない。入り口の両脇と自分が寝ていた寝台の近くには燭台がある。寝台のそばにある窓は木製で質素な作りで、日光と共に外の気温を素通しして入る気がした。見た所、断熱などを考慮しない薄い窓である。今の時代、こんな窓は新築ではありえないだろう。つまりは築年数が相当古い建物だと思われる。他には小さなテーブルと椅子はあるが、目に見える範囲に照明らしいものは見当たらない。もしかすると燭台が通電することで照明になるのかもしれないが、それを考えればわざと古風なコンセプトの建物なのかもしれない。 しばし何かを話した後にロゼッタに背を押され、ピスピが室内に入ってきた。出会った時の服装は忘れてしまったが、今のピスピは白いケープに黄色いワンピースにも見える修道服に身を包んでいる。外に跳ねるセミロングの毛先を揺らす彼女は困ったような表情を作りつつ、ちらりとこちらを見ては目を外す。 「こんにちわ、ピスピ様」 「あの、えっと……。こんにちわ、つくも……さん?」 「一で構いませんよ」 「……はじめで良いの?」 「構いませんよ」 「じゃあ、はじめって呼ぶね」 呼び方が定まって距離感の足がかりが出来たのか、ピスピは嬉しそうに眉を持ち上げる。このちょっとした事で喜怒哀楽の表現が読み取れるのは年相応に幼い為か、子供らしさが読み取れた。 「ピスピ様、ご説明を」 「わかってるよぅ。えぇっと、どこから話したらいいのかな?」 「彼も落ち着いて見えますが、何も現状を理解していないでしょう。まずはこの世界の事と、ここに呼ばれました理由を説明しましょう」 「うん、わかった。……えっとね、ここは──」 ──第六異相世界ロンロン・ピスピ。 それがこの世界の名前であり、ピスピ様はこの世界の巫女だという。ここで言う巫女とは世界が存続する為に必要な存在であり、この世界の神と対話できる存在だという。そして完璧故致し方ないのもしれないが、自分は契約者という存在らしい。契約者は神と対話でき、神を操作できると──。いやいやいや、待て待て待て。何の話をしているんだ? 九十九は表面上平静を取り繕いながら、ピスピの話に相槌を打つ。如何に意味のわからない話でも、女性の話の腰は折らない。紳士たるもの何時でも冷静であるべきなのだ。 「それでね。今は他の世界含め……。あ、他の世界っていうのは、この世界は第一から第七世界まであるの。それでここは第六世界で、今は他の世界含めて滅びる瀬戸際に立たされてるの」 ふむ、意味はわからないが切迫した状況らしい。ロゼッたんとピスピ様が俺を騙そうとしている? 否、否定から入るのは女性に対して失礼だ。何よりピスピ様はどうすれば俺に事態を理解させられるか、考えを咀嚼してから舌に乗せている。その真摯さを信用できない程度の器であれば、自称完璧だと鼻で笑われ紳士を騙る道化だと嘲られても仕方がない。 「……それで今は第四異相世界の神が目覚め、契約者に操られて他の世界に侵攻しているんですね。それでこの世界を守る為にも契約者が必要で私を呼んだと」 「うん、そーなの。わかってくれた? 理解してくれた? はじめはすごいね!!」 ピスピ様はぴょんぴょんと跳ね、満面の笑顔でロゼッたんを見ている。全くもって意味がわからない。何を言っているんだ、このロリっ子は。アニメや漫画に影響を受けすぎているのではと邪推してしまうが、思考停止は完璧からは程遠い。意味がわからないからこそ理解する必要があるのだ。 ──情報を整理しよう。 まず初めに行う事は自分の持つ常識を破棄する事だ。そうしなければ彼女達の言葉が嘘になってしまう。そんな事は認められない。では完璧な自分が間違っているのか? 否、この状況は9割の完璧さに該当しない1割なのだ。九十九は自身が完璧である為に9割の完璧さからなる常識を破棄し、1割からなる未完成さ。この世に幽霊は存在しないという常識ではなく、この世に幽霊は存在して日常的に会話できる世界こそが常識であると思考を切り替えた。オカルトが常識になる非常識。この非常識が今の九十九が完璧である為に必要な1割であった。 1.この世界は自分がいた世界とは違う。 2.ここは第六異相世界ロンロン・ピスピ。 3.異相世界は第一から第七まである。 4.各世界毎に神、巫女、契約者が一人存在する。 5.神と巫女は各世界が存続する為に必要である。 6.巫女は神が選定し、代々継承される。 7.契約者は存在するが、それが見つかるかは運次第。 巫女と契約者の決定的な違いは神を操作できるか否か。 世界の存続に必要か否か。 この二点が大きな違いだろう。これを鑑みるに契約者は神を操作する必要がない限り不要な存在であり、世界にとっての優先順位は巫女が上である。そしてこの世界に不在であった契約者を無理やり呼び出したという事は、神を操作する必要がある状況なのだ。 8.数ヶ月前、第四異相世界グエスギガ・ララで神が目覚める。 9.同時期に契約者が現れ、その後第四異相世界の巫女と連絡が取れなくなる。 10.相次いで第二、第五異相世界が音信不通になる。 各世界の巫女は、巫女間でのみ行える連絡手段があり定期的に世界の状況を報告しているらしい。第四異相世界の巫女から神が目覚めた事、契約者が現れた事を聞いた後に音信不通に。しばらく後に第七異相世界の巫女から第二、第五異相世界は第四異相世界の神に侵攻され支配下に置かれたと聞いたらしい。 11.このままでは第三異相世界も支配されるとピスピ様が懸念。 12.契約者不在なのは神が目覚めていないからと判断。 13.神を叩き起こす為に頭の上で騒いでいた。 その蛮行の結果、功を奏したのか自分が半身不随の危機に陥ったという事だ。聞いた話を時系列で纏めるとこんな所だろうか。詰まる所、自分の役割は契約者として神を操り第三異相世界を第四異相世界の神から守って欲しいと言う事だ。うむ、話は理解した。 「貴方の役割は理解できましたか、下郎」 「意味がわからん」 「え?」 「えっ?」 したり顔のロゼッタの言葉を九十九は完全に否定する。今までと違う完全な拒絶がわかる言葉に二人は虚を突かれた様に声を漏らした。彼女達に嘘はない、それはいい。状況も理解できた、それもいい。俺は完璧だ、異論はない。 「何故俺がそんな事をしなければならない。早く元の世界に還せ」 「な、何でって契約者だから……」 「契約者である貴方の使命だからだ」 「それがわからん」 困惑するピスピの言葉を補強する様にロゼッタが続けるが、そんな事で九十九は揺らがない。如何に今までの常識を破棄しようが芯は微塵もブレることはなく、だからこそはっきりと断言する。 「何故俺が何の恩も思い入れのない世界の為に命を懸けねばならんのだ。それはこの世界に住む人間がする事であって他の世界の住人である俺がする事ではない」 「え、えっ? はじめ?」 「だから、それは契約者の使命で……」 「それはこの世界の話だろう。俺のいた世界にそんなものは存在しない。何より契約者と言うだけで命を懸けるほど俺の命は軽くない」 幼い事は時に罪である。何一つ自分に非はないのを理解していても彼女の表情を見ると胸が痛む。本来ならば女性の為、ピスピ様のために命を張るのも吝かではない、とまでは流石に言い切れないが物事には順序というものがある。 「……それは何か見返りが欲しいと言う事か?」 「そうだな、命を張るんだ。対価くらい望んでも罰は当たらないだろ?」 「ロゼぇ……」 「……わかりました。相談しますので夜まで時間をください。ピスピ様、行きましょう。食事はこちらにお持ちします。好きに出歩いて構いませんが、夜にはこちらにお戻りください」 興味のない返事に事務的な返事。悲痛さすら感じる声を出すピスピを促してロゼッタは部屋を出て行った。その二人を見て九十九は溜息を漏らした。この世界が本当に自分がいた世界とは違う世界なのか疑念が残る。当たり前のように会話をしている事から言語は日本語、彼女達も特段日本人離れした容姿な訳ではない。二人の話は理解したが、それでも情報源は彼女たちの言葉のみ。突飛な話ではあるが誰かに意識を奪われたあと体験型アトラクションに参加させられた程度の認識に留まっている。 「……何が契約者だよ。何かさせたいなら頭下げて頼むのが筋じゃねぇの?」 もしかするとこの道理が通らないのが異世界の証拠なのかもしれないが、自分の意志だけを押し付ける世界なんてまっぴらごめんだと九十九は足りない情報を埋める為に部屋を出た。目には見えない情報はどこであろうと生きる上では最大の武器である。もしここが日本であるなら帰ればいい。最悪、異世界だと言うなら今後の為にも情報が必要である。訳のわからない状況、意味のわからない異世界から逃げる第一歩として建物を散策して出口を探す事にした。人生初の脱出ゲームが世界からの脱出とは完璧な自分に相応しい難易度だと、九十九は不安を誤魔化すように自嘲する。 程なくして九十九は頭を抱えて、街中のベンチに座り込む事になった。それは遅れてきた自覚と焦燥感からくる混乱の表れである。 「……は、まじか? まじで言っての? まじで異世界なの?」 自分がいた建物は天まで届く様な石造りの塔であった。その現実離れした光景を皮切りに街道に沿って街へ来てみれば人面犬ではなく犬人間、蜥蜴人間、兎人間に猫人間。ロゼッタとピスピの様に完全に人間と呼べる見た目の生物は少ない。ちょっと街中を歩いただけで目眩を覚え、ベンチに力なく座りどれ位の時間が経ったのだろうか。 「何で二足歩行の動物なんだよ、せめて人間主体でケモミミ生やせよ。訳わかんない世界にいる癒やしをくれよ……」 流石に街一つを体験型アトラクションにするわけもないだろうし、往来する動物人間どもが特殊メイクには見えないリアルさがある。 「マジでどうする? 本気で異世界ならどうやって帰んの? 帰れなかったら? 訳わからん契約者として死ねって?」 情報過多で頭が痛い。考える事が多い、何をすべきかわからない。何一つ納得せずに契約者として命を張るなんて嫌だ。考えがまとまらない。理性が感情に流されて落ち着かない。世界が変わっても自分の中の芯は揺らがないが、正確に現状を把握して対策し最善手を取るための土台がない。それは漠然とした生きるための不安であり、生きるためには働かなければいけないのに仕事がない状況に酷似している。そんな状況で落ち着いて行動の選択ができる訳もない。義理や道理は土台あってこその余裕だと思うも、武士は食わねど高楊枝という言葉もある。 「……はぁ、落ち着け。俺は完璧だ、焦る必要はない。まずは落ち着くべきだ」 彼女達の前で泰然自若は崩せない。その余裕と強気が交渉を優位に進めるのだ。この何もない世界で土台を築く為に、自分は彼女達より心理的に優位でいるべきだ。手持ちの武器は契約者という立場。この唯一で最大の武器を使い、まずは生活の基盤を作る。夜にはもう一度話す機会があるのだ。向こうがどんな条件を持ってくるかはわからないが、ここが重要だ。まとまらない考えの中で唯一判断を下せたのは、ここの交渉で衣食住を確保する。その為に一端考える事をやめ、休む必要がある。後のことは夜の自分に任せ、今は頭を休ませよう。精神的な疲労を軽減する為にも、九十九は自分が起きた寝台へと眠る為に向かって行った。
◇
数時間は眠れただろうか。起きると燭台には火が灯されていた。この世界に電気は無いようだ。一寝入りしたからか、寝る前よりもここは異世界なのだとすんなりと実感できた。もしかするとそれは日本ではないと理解した諦めなのかもしれない。寝台の脇にあるテーブルにはパンと思わしき食べ物が置かれていた。手に持つが表面は乾燥していて硬い。指で潰すが弾力はなく凹んだままだ。やや硬いそれを少しばかりちぎり口に運ぶ。パンと言えばパンかもしれないが、どこか焼く前の生地の様で食感はよろしくない。妙な歯ごたえはあり腹持ちは良さそうである。味に関してはノーコメント。 静かな室内に遠くから音が反響してくる。不揃いな足音は徐々に大きくなり、二人が室内に入ってきた。 「起きてましたか」 「こんばんは。日中は申し訳なかったね、色々と理解が追いつかなくて取り乱したよ」 「そうだよね、はじめも急に呼ばれても意味わかんないよね」 ロゼッタは空いている椅子を引き、ピスピを座らせると後ろに立つ。 「見返りに関しましてピスピ様と相談しました」 「はじめの言ってた事ももっともだなって。いきなり世界の為に命懸けで戦ってって言われて納得できないよね。だからはじめが頑張ってくれるように色々考えたんだ。でもね、思いつかなかったの」 「……九十九様。日中の非礼、お詫びします。この世界で生きていた私達にとって契約者とはそういった存在であり、それが当たり前でした。だからこそすんなり契約者の使命だから命をかけて戦うものだと思いこんでいました」 とつとつと話し始めた二人に淀みはない。 「それでね、自分達にとって都合がいい事はじめに押し付けてたって話してたんだ。私だって知らない所でいきなり命かけろって言われたら嫌だなって」 「落ち着いて考えてみれば私も嫌でした。確かに見ず知らずの人に押し付けるのは道理ではありません」 「だからせめて出来ることはしようと思ったの。でも巫女って別に偉い訳じゃないから大した事出来ないんだ」 「巫女であるピスピ様には色々と制限があります。その制限の中で唯一自由に出来るのは生活するこの塔の中の事です。この塔の中で起きる事に関してはピスピ様に全権があります」 「ここで出来る事も別にないんだけどね」 彼女たちは互いが会話するように言葉を続けていく。自分同様、彼女達も自分の事で手一杯なのが痛い程わかった。自分の世界を救える契約者が現れたなら縋りたいのも無理はない。それを一方的に押し付けていた事を、夜までに話し合い理解したようだ。 「それでね、あんまり私達に出来る事ないんだけど、急にこの世界呼ばれてもはじめもどうしょうもないよねって話して、それならしばらくはここで生活してもらおうって話したの」 「九十九様、申し訳ありませんが今すぐに貴方を元の世界に還すことは出来ません。ですので、せめて生活で困らないようここを使ってもらおうと決めました」 「あ、別にこれが世界を守ってもらう為の対価ってわけじゃないからね。あくまでもこっちが勝手に呼んじゃったからはじめが困らないようにするための措置なの」 「それは願ってもないお言葉ですが、すぐには帰れないのですか?」 「うん、ごめんね。そもそも神様を叩き起こそうとしたらはじめが現れたから、私達が呼んだわけじゃなくて……。たぶん、神様しかわかんないと思うの」 「ただ貴方が来たことから神も半覚醒状態のようで、今はピスピ様も何か意識を感じる程度に起きているみたいです」 「……帰りたかったら、その神が起きないとどうしようもないって事ね」 あぁ、やっぱりか。街で諦めた時に考えはしたが様式美としか言えない、嬉しくないお約束。ご都合主義と言われても仕方がない展開。意図せず漏れたため息に九十九は疲労を感じていた。 「ごめんね。でもこの中なら好きにして良いからね。私に出来るのはその許可を出す事だけだから」 「神が起きれば、もっとしっかり話を聞けて貴方も帰れるはずです。ですので、それまではここで生活をしてください。この中であれば安全ですので」 「……世界を守るのに契約者が必要なのでは?」 「うん、でももしかしたらこの世界にも契約者がいるかもしれないから。そっちを探すからはじめは心配しないでね」 「そうですか。わかりました」 「じゃあ、話はおわりー」 「今日はもう遅いので寝ましょう」 「明日は中を案内するよ、はじめ。だから今日はおやすみなさーい」 「では、九十九様。一方的な話になってしまい申し訳ありませんでした。おやすみなさい」 「……うん、おやすみなさい」 今は本当にできることが無いのだろう。二人は部屋を出ていってしまった。どうしようもないとは言え、消化不良なのは否めない。ここで生活できるのは助かるが、自分を含め本当に契約者が存在しているのかも疑わしい。そもそも外の世界の自分が契約者とは考えにくい。だが本当に自分が契約者であれば恐らくこの世界の人間に契約者はいない。もし自分が帰れたとして、この世界に契約者は現れるのか。否、存在しないから他の世界から自分を呼んだはずだ。自分が何もしなければ第三世界は亡びるのだろう。俺がこんな事に巻き込まれる道理はない。しかし、それは完璧なのだろうか──。 ◇ 漠然と世界について考えていると夜が明けていた。 弱い眠気はあるが働き続けた頭は眠る気分ではないらしい。どれだけ考えても結局自分に出来るのはここで間借り生活をする事と、元の世界に戻る方法を模索するだけなのだ。少しばかり窓から外を眺めていると部屋に食事が運ばれてきた。運んできたのはロゼッタと同じ修道服に身を包んだ女性である。 「おはようございます。体調はいかがですか?」 「おはようございます。ありがとうございます、体調は問題ありませんよ」 「それは何よりです。ピスピ様とロゼッタ様からお話は伺っています。急に呼び出されてご不便も多いと思いますので、何かありましたらお声がけください」 「ここには何人か住んでいるんですか? 大きい建物ですが」 「んー、完全に住み込みは少ないですね。すぐそこが街ですし大半は街に住んでいますよ」 昨日行った動物人間しか見なかった街。彼女の様な自分と同じ人間と分類される種族が住んでいるようには見えなかった。 「昨日行きましたが、その……自分達とは見た目が違う方々しか見ませんでしたよ」 「あぁ、居住区が区分けされているんですよ。やっぱり習慣が違う方々と同じ街で完全に同じように生活すると互いに不便だと思うことが多々ありまして。ですので、ここで働く人たちは他の居住区で生活していますよ」 文化の違いは生活の違い。幾ら完璧な私でもいきなり海外で生活しては困惑も多い。無理にひとまとめでは無く区分けして共生する。非常に合理的な方法である。 「そうなんですね。申し遅れました。私は九十九一です、色々とご面倒をお掛けするかもしれませんが、よろしくお願いします」 「エイシャ・リンドです。よろしくお願いします、九十九さん」 持ってきた食事をテーブルに置きながら、彼女は微笑む。 格好はロゼッタと同じだがベールは被っておらず、薄茶色の瞳を覗かせていた。172cm、52㎏。高身長痩身で第一印象は華奢である。身長に見合わない細さは不健康さを感じるが顔色が悪い訳ではない。この世界は自分のいた世界と生物の作りが違う可能性もある。ピスピ様の軽さもそう言った生物的な違いが由来なのかもしれない。 「ここで働いて長いんですか?」 「一年程度ですよ。ここでは家事のような事をしています」 「そうなんですね。ええっと、二人からは話は聞いているんですよね。エイシャさんはどうすれば良いと思いますか?」 「どうすればって言うのは九十九さんがですか?」 「うん。何が正しいかなって」 「さぁ、何が正しいんでしょうね? でもまぁ、みんな好きに生きてると思いますよ。こっちの都合で呼んでしまいましたが、九十九さんの好きにしていいと思いますよ。ピスピ様達も違う人探していますし」 「難しい事言うね」 「適当なだけですよ。それじゃあ仕事に戻りますね。食器は置いておいてください」 頭を下げたエイシャは部屋を出ていった。 ──一つ確認しよう。杞憂の可能性は捨てきれない。自分が一般人であれば彼女達も踏ん切りが付き、自分も開き直れる。確かめる方法はきっとあそこ、自分が初めて現れた場所。ピスピ様が跳ねていた岩のような物に接触する事で何かしら確かめられるはずだ。エイシャが運んできてくれた食事を済ませると九十九は部屋を後にした。 ◇ 「広すぎるだろ……」 道に迷った、ここはどこなのか。部屋を出てから何人かの人とはすれ違った。向こうも話は聞いているのか察して挨拶を交わす。この建物の中なら好きに出歩いて良い許可も聞いているからか、特段邪険な扱いはされなかった。そこまでは良かった。だが気がつけば人に合わなくなり、明かりから遠のいていた。大分建物の奥まった所へ来たのかもしれない。戻ろうと来た道を戻るが、どうにもおかしい。完璧な私は常に左側の壁を追ってここへ来た。つまり帰りは右の壁を追えば来た道を戻れるはずだった。しかし、人のいない廊下は徐々に暗くなっていく。進むか戻るか。否、どちらも答えに変わりはなさそうだ。それならば一方に進んだ方が楽そうだ。九十九一一歩一歩、確実に暗闇の奥へと進んで行く。 ◇ 「九十九様がいない?」 「はい。お昼にも話しましたよね? 半日くらいなら外出かもしれませんが夜にも戻ってないのは……」 食事を運んだエイシャは昼にも同様の報告をロゼッタに行っていた。その際は街に行っているのだと思い気に留めなかったが、夜にもいないならば話は別だ。しばし逡巡後、わかりましたとロゼッタは短く答え、エイシャと別れピスピの元へと足を向ける。 塔の最上階に彼女の私室は定められている。理由は他の世界と連絡が取れる巫女の間が最上階にある為だ。見慣れた道を進みピスピの私室へ目指すと道すがら、小さな話し声が漏れ聞こえた。巫女の間だ。ロゼッタは部屋の前で足を止めると扉を叩く。 「あ、ロゼッタかな? じゃあ、また今度ね」 漏れた声から間もなく扉が開かれ、寝間着姿のピスピサマが顔を覗かせた。 「どうしたのー?」 「実は九十九様が昼から部屋に戻っていないようでして」 「え、なんで?」 「理由はわかりません。ただ、彼が何も言わずにどこかへ行くとは考えにくい気がします」 「……もしかしてここで迷子になっちゃったのかな。ロゼッタ、見た人いないか聞いてきて。私も着替えたら行くから」 「わかりました、まだ人もいますし何か聞けるかと思います」 下へ戻りながらロゼッタは伝達魔法を使用する。それはこの建物内においてのみ使用できる一方的な通信魔法で魔法であり、業務連絡に使われるのが主である。対象はピスピ様より住持者としての加護を受けた者のみであり、残念な事に九十九は対象外である。 『皆様お疲れ様です。緊急の連絡となります。本日客人である九十九様を見た方は至急事務室にお集まりください』 端的に要件を済ませて魔法を切るロゼッタの内心は穏やかではない。自分たちの勝手で呼び出した客人に何かあれば自分達の責任である。それ以上に何も知らない世界で一人になる九十九が心配であった。 事務室に付くと数人が集まっていた。 「皆さんお疲れ様です。すみません、急に呼んでしまって。九十九様の行方がわからなくなりました。エイシャさん、お昼と夜の配膳の際に部屋にいなかったんですね」 「はい。夜に行った時に昼の物が、そのまま残っていました」 「午前中に会った人はいますか?」 「お昼の少し前に挨拶しました」 そう答えたのは数少ない男性の従事者であるクルトであった。 「どちらでお会いしましたか?」 「五階の廊下です。中を見回っていると仰っていました」 「許可は出していましたし、時間的にも出歩き始めた頃でしょうか。ミリー、貴女は?」 「夕方頃に地下一階でお会いしました。地下には特に何もないので一緒に一階に戻るか聞きましたが、もう少し歩いたら戻ると言われたので、そこで別れました」 「そうですか。まぁ、地下なら広くないですし、一人でも一階に戻れますよね」 「ロゼッタさん、九十九様はお昼に手を付けておられなかったのですよね? 夕方まで中を歩くにせよ、お昼を食べに戻るのでは?」 クルトの問いにミリーも同意する。 「そうですよね、もしその時点で迷っていたなら私と一緒に部屋に戻ったかと思います」 「そうですよね」 「5階から地下までは行ってるんですよね? いくら迷ったにせよ、半日も歩きませんよね?」 エイシャの言葉にロゼッタは唸る。そうなのだ。いくら歩き回っても半日もかかるとは思えない。ミリーの話を聞く感じ疲労も感じられない気がする。だが、やはり中にはいそうな気がする。どこか行きそうな所はあるだろうか。集まってくれた三人に礼を述べ解散し、一人事務室に残る。そこにピスピが入ってきた。 「あれ、みんなは?」 「話は聞いたので解散しました」 「どうだった?」 「午前と夕方に五階と地下であったそうです」 「地下? 誰かと?」 「いえ、ミリーが地下に行った時に会ったようです」 「地下は貴重品とかもあるし鍵閉めてるよね? はじめはどうやって入ったの?」 「……そうですね。仮にミリーが入った後に九十九様も入ったとしたら、その後の施錠はどうしたのでしょうか」 「ロゼぇ……。とりあえず近に行ってみよ」 「すみません」 ため息混じりのピスピと共にロゼッタは地下へと向かう。地下の扉は施錠されていなかった。 「むぅ、不用心だなぁ」 「ですが、今回に限っては安心できました。九十九様が閉じ込められている訳ではない様ですね」 「そうだね。念の為、中を見てから施錠しよっか。点いて」 ピスピの言葉に反応して地下が明るくなる。ピスビは奥から、ロゼッタは手前から各部屋を確認して行くが九十九はおらず、二人は地下を出て施錠した。 「いませんでしたね」 「……もっかい部屋見てみよ。それでもいなかったら、もしかしたら」 もしかしたら、本当に契約者なら神に呼ばれているのかもしれない。二人は九十九にあてがった部屋へと足早に向かっていった。