鬼ヶ島の主には人の心がわからぬ。 何故斯様に人は醜いのか。 曰く、世の為。 曰く、人の為。 なれば、人の為に処された人間は人では無いと。 思慮の欠落。 鬼ヶ島の主には人の心がわからぬ。 此処は桜舞う鬼ヶ島。 無機質な島に咲き乱れる八重桜。 喜びを奏でる流麗な雅楽。 黒い外套を羽織る鬼ヶ島の主は人の心を忘れようと、目を閉じて幻想的な鬼ヶ島に溶けていく。 身体を引きずり帰った自宅はもぬけの殻だった。 確かに時間はかかった。 だが一年もかけた覚えはない。 寿命で天に召されたとは考えにくい。 何より自分よりも早くに亡くなるようなか弱い生き物では無かった。 下手をすれば自分とは行き違いで、鬼ヶ島へと向かった可能性の方が高い。 身体を馴染んだ床に転げて見慣れた天井を見やる。 こんなに低い天井だったかを久しぶりに再認識した。 ふと、炊事場に目をやると見慣れた茶碗が落ちていた。 珍しい事もあるものだと体を起こして這いずる。 嫌な考えがよぎった。 もし家を空けるのであれば、こんな状態にはならない。 ここの家主達が物を粗末にするような事をする筈が無いのだ。 可能性としては家主の不在に侵入者がいたか、何かしらの事象に巻き込まれて余裕がなかった程度しか思い至れない。 前者であれば大した問題ではないが、後者であれば話は変わる。 不安を払拭するためにも付き合いのある人間に会いに行く事とした。 少しばかり人に見せるには躊躇われる状態ではあるが、そうも言っていられない。 勝手ながら家主の桐箪笥から黒い外套を取り出して羽織る。 最低限、片腕と片足を隠して日傘を杖に、無理やり立ち上がり家を出た。

ーーあぁ、何て事でしょう。 全身の感覚が薄れ、体の重さを忘れる。 ふらつく体を支えようと足が動くが、もつれて倒れた。 杖にしていた日傘は役割を果たせずに手元から落ちる。 ーーよもや、よもや 欠けた手足などどうでも良かった。 それ以上に必要な物がない。 心が欠けた。 物体として存在しない心が痛い。 胸が痛い。 初めての痛みに体を丸め、嗚咽が漏れる。 どれだけ強く目を閉じようとも抑えられない痛みが溢れて顔を濡らしていった。 心が壊れないように、抱き締める様に、丸めた体が守るべき心は欠けていた。 欠けた心は戻らない。 既に手遅れ、欠けた手足の代償は更なる代償を負わされる。 ーー痛い、いたい、痛い、いたい いつの間に帰っていたのか、落とした日傘を手に自宅で倒れているのに気が付いた。 もう日も暮れて星明かりが差し込んでいる。 ーーあぁ、此処に私の居場所はない 欠けた心は拠り所にならなかった。 いっそ後を追おうとして辞めた。 そんな事をしても褒めてもらえない。 いっそ巫山戯た事をした輩共を殺そうかと思うも辞めた。 しても何も変わらない。 何より二人の意志を折る行為など出来なかった。

私が家を出て幾ばくか後、鬼共の活動が活発化したらしい。 良くも悪くも目立つ家族であった為、私がいない事に暫くは気付かなかったようだ。 だが、ある時それに気づいた誰かが御偉方に報告した。 「あそこに住む人間が鬼を手引している」と。 ……時期が悪かった。 私が家を出た後に鬼が活発化したせいで、私が鬼を手引していると御偉方も判断した。 立ち入った家には私はおらず、残る家主達が詰問された。 いくら問おうと言い分を認めない家主達に業を煮やし、投獄した上で自分たちの望む答えを吐かせようと躍起になる。 それでも結果は変わらず、ただ家主達が衰弱していくだけだったという。 何の証言もなく野垂れ死なれては御偉方の面子に関わったのか、公開処刑に乗り出した。 物見遊山の様に群がる大衆の中、御偉方は何かそれらしいことを宣って、自分たちが正しいことを主張したらしい。 私が鬼を手引し、それを隠し立てする家主達も人の世を脅かす存在だと。 人は弱い生き物なのは知っているつもりであった。 鬼に抗えない人間からすれば、鬼が活発化するなど恐怖でしかない。 そんな弱い生き物は得てして大きな声にも弱い。 長いものには巻かれろとは良く言ったもので、声高に自分は悪くないと主張する言葉は、何も知らない思考停止している大衆には真実となった。 大衆にとって真実などどうでも良かった。 ただ一時でも恐怖を和らげる理屈が欲しかったのだろう。 打って変わって、家主達は衰弱こそすれ騒ぎ立てることはなかった。 薄っすらと開けた瞳は、ただ真っ直ぐに前を向いていたと言う。 「なぁ、しずゑ」 「なぁに、光宙」 「良い天気だなぁ」 「そうねぇ」 「ゴスロリは元気かなぁ」 「もぅ、何回目なの。権左衛門は元気に決まってるでしょ」 「そうだよなぁ」 「そうよ。私達の子供だもの」 「帰ってきた時に困らないようにしないとなぁ」 「あの子にかかる濡れ衣が私達で払えるなら安いじゃなーー」 束の間の会話だった。 私が話を聞いた人の知り合いが近くにいたらしい。 もっともらしい言い訳を演説してる中の些細な会話。 そんな日常的な会話は処刑によって遮られた。 ……それもそうだ。 二人が無抵抗でなければ、その辺の役人なんぞに捕まる訳がない。 片や未来人然としたハイカラ爺様、片やゴスロリ護身術創始者のゴス婆様。 ーーあぁ敬愛なる御爺様、御婆様。 これでは孫不幸というものです。先立つ不幸を許してもらえるのは私の特権です。私だけが親不孝を許してもらえるのです。あぁ御爺様、御婆様。私はどうすれば御二人に褒めてもらえますか……。 在りし日々を夢想し、夢の中でだけは幸せに浸れると気づいたゴスロリ太郎権左衛門は眠り続ける生活を続けた。 幸せな夢を見て流す涙だけがゴス太衛門の欠けた心を潤わせていく。 ようやく気持ちに余裕ができるほど心が潤ったとき、同時に此処にいては心が痛む事に気が付いた。 もう良いでしょうと自分に語りかけて立ち上がる。 ゴス婆様が愛用した外行きの外套を羽織り、止め紐を直した日傘を手に立ち上がる。 足は自然と鬼ヶ島へ向かっていた。 もう急ぐ理由はない。 行きの2倍ほど時間をかけて辿り着いた鬼ヶ島は、以前の様な物々しさを感じなかった。 此処は流刑地、人の世から追い出された者たちの掃溜め。 まさに自分の事かと自嘲した。 生活の拠点は鬼岩城。 今や鬼の首領は存在しない空き家。 住処にはもってこいの場所であった。 鬼岩城への道すがら襲ってきた数体の小鬼をあしらう。 これからは共存するのだ。 一方的に殺しても後味が悪い。 ゴス太衛門は見覚えのある朱色の城門前で足を止めた。 聞き覚えのある音色が、城門の向こうから漏れている。 杖として使用していた日傘を武器として持ち替え、城門をくぐった。 そこは枯れ果てたはずの桜が咲き乱れ、雅楽の鳴り響く貴族の庭となっていた。 無言で桜の元へと歩くと、高麗笛が1つ止まった。 じっと見上げる小鬼は焦る事なく、再度高麗笛を鳴らし始める。 一度手を止めたにもかかわらず、一糸乱れる事もなく演奏に合流した。 敵意を感じさせない行動に、今更敵対する理由もないゴス太衛門は日傘を支えにし雅楽に意識を解いていく。簡易的な義足があるとはいえ立ちにくい。桜の幹に背中を預けると目を閉じた。 微睡みは時間を忘れさせた。 ここまで来た疲労も合わさり、うつらうつらと舟を漕ぐ。 耳に馴染む音色は人の世からあぶれたゴス太衛門の心の痛みを和らげた。 幸せな夢に一筋の涙が零れ落ちた頃、音楽が止まった。 「お主も罪を犯したか」 掠れるような、どこか声とは言い難い音がゴス太衛門に向けられる。 俯いた頭を持ち上げ瞼を開く。 微かに滲んだ視界には10体の小鬼が囲むように立っていた。その表情からは感情が読み取れない。 「違うよ。ただ、居たくなかっただけ」 声を掛けてきた小鬼は他の小鬼たちと顔を見合わせる。 「我らの演奏はどうであった」 「……? うん、すごい上手だったよ」 「それは重畳。客人を持て成す演奏など幾星霜ぶりか」 先程よりもはっきりとした声が届く。 「話せるの?」 「もう話せるのは私だけとなった。だが小奴らも話せないだけで意識も知性も、生前と変わらずに持っている」 「えっと……、私が前に切ったのとは別なの?」 確かにあの時、頭目の炎で最後の桜は焼けたはず。炎の熱で留め紐が溶けて開いた日傘に守られ、私も一命は取り留めた。日傘からはみ出た手足の一部は焼けてしまったが、それでも生きていた。意識を取り戻したとき子鬼はおらず、枯れ果てた桜と動かない頭目だけがこの場に残されていたはずなのだ。 しかしこの場は、頭目こそいないが以前来た時と変わらない場所であった。 「瑣末事。元より我らは朽ちている」 「何でまたいるの?」 「お主が切った桜は媒介に過ぎん。魔性なるこの身は桜を通じて顕現する」 「……ふーん、そうなんだ。他の鬼もそうなの?」 「明日で良いだろう。自ら来たのだ、帰る気もあるまい」 「居てもいいの?」 「我らの演奏を最後まで聞いてくれた礼だ。客人を持て成すのも貴族の礼儀、今宵はとくと楽しめ」 此処は流刑地、鬼ヶ島。 宵闇に染まる世界を篝火が照らし出す。 城壁に囲まれた世界は風から守られ、篝火の熱で仄暖かい。 此処は桜舞い散る貴族庭。 優美な雅楽は鳴り止まない。 人の世から逃げたゴス太衛門を罪人たちは受け入れる。 その夜、ゴスロリ太郎権左衛門は久しぶりに涙を流す事なく朝を迎えた。