レンキスが魔導書を展開してからは、勇者自身押されているのを自覚していた。 杖を顕現させたレンキスは動くことはない。動く必要がない。何一つ行動を起こす事なく魔法を発動していく。それが魔法発動の察知を遅らせ、後手に回らせる。積もり積もった後手が勇者を押し込めていた。 魔法生物の極地である魔王は魔法に耐性があり、通常の魔法ではダメージが与えられない。恐らくレンキスの魔法以外では損傷を与えられなかっただろう。そうなれば必然として近接戦でしか戦えなかった。幸か不幸か魔王は魔法耐性に加え高い再生能力もあった。それに驕っていたのか、はたまた魔法よりも近接戦が強かったのかはわからない。それでも魔王は自分の天敵であるはずの勇者との近接戦に甘んじた。それは限りなく細く、何度も切れては紡いだ活路。その果てに勇者は魔王を討伐した。──だが、レンキスは違う。レンキスは生粋の魔法使い。それも魔王の片腕を魔法で吹き飛ばす程の術者。魔王とは違い勇者の土俵には立たない。手練手管を用いて魔法使いの土俵に立たせてくる。否、現状を考えれば勇者は土俵にすら立てていなかった。 一方的に攻められる勇者は視界を、聴覚を、全身の感覚を集中させ直感と呼べる不確かなものを、数秒先の未来を確定させる程の精度に昇華させる。それでも尚、レンキスの魔法を凌ぐに留まっていた。……自分の体力が先に尽きるか、レンキスの魔力が先に尽きるか。はっきり言って後者は絶望的に思えた。無尽蔵とも思えるほど間断なく放たれる魔法は余力など度外視しているとしか思えないが 、レンキスはそれでペースを乱すような存在ではない。 『ねぇ、エリオット』 不意の声にコンマ数秒意識がそれた。本来白羽の太刀で切り落とすはずだった魔法を無理に体を捻り回避し、体勢を崩す。追い打ちをかける魔法の嵐を歯を食いしばり、無理に無理を重ねて予知をするよりも早い反射行動で斬り伏せ回避し、脳内で何かが焼き切れ溢れる感覚に溺れた。そうして持ち直したコンマ数秒、レンキスは相変わらずに立っているだけであった。思考することなく魔法の一種と理解している勇者は次に聞こえる声に反応を遅らせることはない。 『これじゃあ決め手にかけるね。流石に僕の魔力も有限だし、あと半日くらいしか保たないんだ』 耳元か脳内か、レンキスの声は魔法の嵐の中でも一番上に重ねられた音の様に明確にエリオットに届く。 『前に言ったよね、備えがあれば勇者を倒せるって』 語りかける口調は穏やかだが、魔法が緩むことはない。 『だからさ、僕が君に勝つのは当たり前なんだ』 込み上げた不快感は、此処に立ち続けることを優先した本能が洗い流す。 『当たり前って事は日常生活と何ら変わりない。ただ歩き回って、ご飯を食べて寝るのと違いはなくて。それってさ、達成感がないと思わない?』 レンキスの声は確かにエリオットに届いているが、行動は阻害しない。 『君は魔王を討伐して達成感はあったかな? 僕はさ、想定よりは被害を与えられなかったけど、それでも多少の達成感はあったんだ。あぁ、世界最高の魔法使いを名乗るだけあるなって。それで満足だったんだ。魔王はいつだって勇者に倒される。それは世界の理で、僕は勇者じゃない。役者が違ったんだ』 滔々と語るレンキスは何かを掬い上げるように言葉を紡ぐ。 『君が魔王を討伐したとき、僕は柄にもなく共感したんだ。ついに魔王を倒したって。別に僕が倒したわけじゃないのにね。でもあの場にいた皆も程度の差はあれ同じ事を感じていたはずだよ。ここまで来たことが報われた達成感を。でもそれは本来君が感じるものであって、僕が感じるものじゃない』 捌き続けていた魔法が一手減った。 『君は勇者として戦い、魔王を討伐することで勇者の物語に幕を引いた。それを漠然と感じた時思ったんだ。僕の幕引きはどこだろうって』 徐々にではあるが魔法の嵐が緩んでいくのを被害の中心地で踊る勇者は訝しんだ。 『僕は勇者じゃない。だから魔王を倒すっていう明確な幕引きはない。だからさ、作ることにしたんだ。僕の幕引きを。明確な目的もなく魔王討伐に参加した一区切りを』 ──もう魔王はいない。緩んだ嵐の中、余裕が生まれた思考に自然と言葉が浮き上がる。 『それが君の持つ勇者と魔王の魔力が残存する遺物。今生では二度と手に入れる機会がない代物。それを入手する事を今回の旅の終着点としたんだ』 レンキスは杖を持ち上げ、地面を叩いた。その瞬間、勇者を中心とした魔法の嵐は風となり空に溶けた。 「でもさ、話は戻るけど当たり前の事をして目標達成しても達成感がない事に気付いたんだ。何より魔法は感触がない。どれだけ硬いものを砕こうと、どれだけ力の強い生物を拘束しようと僕には硬さも力強さも伝わらない。今も君にどれだけ魔法を打ち込もうと僕は魔力を消費するだけで危機感すらない。対称に常人離れした対応速度で魔法を捌き切る君を見て思ったんだ。僕に足りないのはこれだって」 「……無駄口を叩いて優位性を崩してまで何が言いたい」 「一つルールを追加した。さっき少し使ってたけど僕は身体強化の魔法が使えるんだ。とはいえ、君のように戦闘技能があるわけじゃない。ただ力を強化した分強く殴れるだけ、多少早く動ける程度の状態。それを利用して必ず君に一撃を入れる。これは僕なりの敬意だ。君の専門分野に踏み入る。それはつまり君からすれば僕を倒す機会に他ならない。君は常に逆境にいた。貴族然り魔王然り、今この時も。それがきっと達成感に繋がる。勇者を倒した実感につながると思うんだ。君の物語には魔王に挑戦するという山場があった。だから僕は今この瞬間から君に挑戦する。それを持って当たり前を打破し、君を倒した感触を持って目的を達成する。それが、ようやく、僕の……。今回の魔王討伐の旅の終着点だ」 「つまり、物理的な攻撃を与えないと勝ちでは無いと」 「まぁ、そういう事だね。君に甘いルールになったけれど、もしその前に君が倒れても遺物は貰わないよ」 「本当だな」 「君も何か……。いや、君に甘いルールにしたからいらないよね」 「もう再開してもいいな」 「せっかちだなぁ。幾ら勝てる見込みができたからって、もう少し落ち着いてよ」 レンキスは5回杖で地面を叩いた。一つ息を深く吸い、短く吐く。その動作で自身にかけられる最大の身体強化を施した。──レンキスの身体強化は5段階に分けられる。一般人が耐えられるのは鍛えられた人間でも三段階まで、4段階目は更に魔法に対して順応できる体質の一部の人間、5段階目はレンキスの体質を最大限利用した人間では耐えなれない出力の強化。それでも勇者に対しては見劣りする性能なのはレンキスもわかってはいた。だが自分から不利になる立ち回りを行う普段ではありえない行為に妙な高揚感も感じていた。 「一先ずはこれで行ってみようかな」 言葉と同時に勇者は地面を蹴った。蹴り砕くように踏み込んだ足は、砕けない大地に押し出されるように勇者を撃ち出す。魔法使いが勇者と近接戦など愚行でしかない。それは専門分野に踏み入るのではなく自殺行為に等しい。言い換えれば、エリオットはここでレンキスを殺せる確信があった。同時に自分と殴り合おうとする魔法使いへの敬意を感じていた。その為、この一刀はわざと杖へと向けた。愛刀ではなく白羽の太刀を振るい魔法の塊を断ち切る、はずだった。魔王の肌すら傷をつける魔法に対し特化した勇者の固有魔法。その一振りは想像した軌跡を描かず、杖に触れることなく受け止められ砕けた。それは魔王の肉体と同等以上の密度で構成された魔法と同義。反射的に愛刀を抜き、今度は物理的に杖を破壊しようとした。その刃先が確かに杖の感触を手に伝えた瞬間、感触が弱くなる。それは勇者の一撃をいなす技術であり、予期しない行動に思わずレンキスの顔を見ていた。視界の端でレンキスが自身の腰を殴ろうとしたのを確認してから、一歩分遠のき回避する。確かに拳は回避した。だが目に見えない衝撃が腰を打ち抜き、勇者を吹き飛ばしていた。 「今のは数えないよ。直接殴れてないし」 体勢こそ崩すに至らず、勇者は両足を地につけ不可視の攻撃には耐えた。ダメージは大したものではないが悪態をつく。 「何が戦闘技能があるわけじゃないだ」 「まぁ、長く生きてるからね。多少の事はできるし、想定した技術くらいは身につけてるよ。とはいえ、君に反応が追いついてないのも事実だし、魔法を織り交ぜてやっと君の足元に立てたかな程度なのは否めないね」 杖を握り直し、手元を見ると初めてレンキスは構えた。勇者も相対し構えるがレンキスは動かない。恐らく普段から近接戦をしないため攻め方に悩んでいるのだろう。そう思い至った勇者は体勢を深く沈めてレンキスの懐に潜り込む。一刀目に改めて白刃の太刀で杖を狙うが、太刀が折れた。そのまま後ろに回り込み愛刀を振るうが、遅れて振り返るレンキスが無造作に出した杖に受け止められる。僅かにレンキスの重心が後ろに下がったのを感じて、杖を奪うために手を伸ばしたが触れる事なく見えない壁に阻まれた。そこから更に一歩踏み出し、見えない壁ごとレンキスを押し込める。上体を反らすような体勢になったレンキスに大上段に持ち上げた愛刀を振り下ろした。 「うわ……」 見えない壁の上から振り降ろした愛刀は、壁を透過して杖を力づくで叩きつけた。反動で更に上体を後ろに反らしたのを見逃さず勇者はレンキスの足を払い、支えを失った背中を地面に叩きつける。 「……っ‼」 叩きつけられたレンキスの視界は一瞬ではあるが白んだ。身体強化を施して尚力負けしている事を体感し、同時に高揚感を得る。──これだ、これなのだ。自分の体に伝わる力の連動。強化した能力で抗うも押し込められる力の差。ただの魔法使いとしては一生得られない経験、体感、明確な敗北感。この力では勝てないのを理解した上で、どうやって攻略するのか。 叩きつけたレンキスに勇者は容赦なく拳を振るい、強い衝撃が頭部に走った。だが痛みは無い。痛覚を遮断したわけではなく、ただ感覚が麻痺して衝撃だけが伝わってきたのだ。身体強化をしていない一般人であれば頭が潰れてもおかしくない一撃はレンキスの頭部を介して地面をえぐっていた。 頭を揺らされた衝撃で意識も途切れかけたが、杖を顕現させる魔力のリンクが強制的に意識を覚醒させる。霞んだ視界に映る勇者は手心を加えているのか追撃はなく、ただ自分を見下ろしていた。 「……ごほっ」 あぁ、血を吐いた。遠くで聞こえた咳と一緒にどこか鉄臭さが鼻を抜ける。前回血を吐いたのは魔王戦の時である。それも魔王の攻撃ではなく自分の魔法の反動でだ。更に昔に遡ると記憶に霞がかかり、思い出せない。記憶の限り自分に血を吐かせたのは勇者だけとなる。 「……満足したか」 「ぐっ、ごぼっ……。ま、まさか……。はぁ……、息するの、辛いね……」 痛みこそないが体にはダメージがあるのを理解する。呼吸をする度に粘性のある異音が喉元で響き、咳と共に赤黒い血を吐き出した。咳き込みながら肺に酸素を送り込み、胸が大きく上下する。 「どうした、回復しろ」 「……優しいね」 「近接戦をまともにやったことに無い奴に入れる一撃なんて不意討ちみたいなものだ。仕切り直す」 背を向けて距離を取った勇者は納刀すると腕を組み、レンキスの動向を黙って見据えていた。呼吸を整えながら体を起こしたレンキスは血を吐き出すと口元を拭う。未だ喉に粘つく感覚を咳払いで押し出して再度血を吐いた。体内を作り変え、既に損傷はない。呼吸を整えて立ち上がると、レンキスは半身になり、杖を正面に構え軽く腰を落とした。 「……もう少し体術も学ぶべきだったかな」 「魔法使いには不要だろ」 「随分優しいこと言うね、勇者様は」 地面を強く蹴り駆け出したレンキスは顕現させた魔法の杖を振るうが、勇者は腕を組んだまま回避する。強化した身体能力に振り回されるように杖を振るい、拳を突き出し、蹴りを繰り出すも全てが完全に見切られており、勇者の軌跡を追う亜麻色の髪しかレンキスは捉える事が出来ない。足を払えば軽く飛んで避けられ、突き出した拳は手首を捕まれ投げられた。魔法を使わなければここまで隔絶された力の差があるのか、これが勇者だと内心沸き立つ高揚感に思わず口角が上がる。 「動作が大きい、脇が甘い。身体能力に対して身体を扱う技能が追いついていない」 「そりゃ僕の専門外だ。仕方ない」
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