欠けた月が見下ろす一室で人影が揺らいだ。  人影は漫然とした意識の中でガラス扉を開き、重い身体を引き摺りテラスへと足を踏み出す。天蓋には宵闇を覗き込む金色に輝く細い瞳。眼下の暗澹とした海では、観客を楽しませる様に水面が波立ち月明かりが踊っている。柔らかな外気が肌を撫で、心地よい歓声が耳に訪れた。  この時間、勇者は部屋に来ない。  宵闇に誘われ次第に意識が覚醒していく。日中の微睡みの中、幾度となく勇者に語りかけられた記憶はある。だが、内容は判然としない。私は何故此処にいるのだろうか。無意識に伸ばされた手は細い瞳に届かない。

自身の記憶を辿れば、最初は矮小な魔族でしかなかった。だが同時に、私は生まれながらに魔王であった。私には魔王としての器と適正があったらしい。そこらの魔族と、そこらの人間から魔王と呼称されるまでに時間はかからなかった。魔族の社会は力が全て。欲しければ奪い、気に食わないならば殺せば良い。至極単純明快に短絡的な未発達な社会。今に思えば、それが最初の檻だった。  私自身、火の粉を振り払う程度の認識でしかなかったが、私を襲う魔族を倒す度に配下が増えた。配下が欲しかった訳でもなく、魔族を倒したかった訳でもない。私はそこに居るだけで襲われ、配下が増え、魔王として君臨していた。配下が増えると言語を話せる知能を持つ魔族も散見された。それらは往々にして高い能力を有し、自然と組織的な体系を構成させる。  気付けば私の関知しない所で魔王軍と呼ばれる組織が出来、意図せずに私は魔族を統率する檻となっていた。  そんな折、いつの間にか他人が作り上げた魔王軍が壊滅状態となった。それは魔王である私の檻を抉じ開け、中を侵すに等しい行為。組織を運営する魔族達すら屠る者が人間の世界に存在すると言う理外の現実。 「……勇者か」  如何に自分と関わりが薄いとは言え、私の名を関する組織が人間如きに蹂躙されるのは気分が悪い。何より私の檻をさも当然の様に抉じ開ける傲慢さが鼻に付く。人間の領分を超えた行為に報復を。魔王は久しく、自身に寄生する魔力のざわめきを感じ取っていた。

急な肌寒さに意識が立ち返る。  記憶を映し出す輝く瞳は、幕が引かれた天蓋の向こうに姿を消していた。観客の居なくなった水面に踊り子はいない。ただただ、崖に波打つ音だけが響いていた。何かを求めた手を下ろし、無意識に手の甲を見やる。 「また私は檻の中……か」  勇者に施された刻印の対価は、人の世界へ踏み込む為の枷。押し付けられる秩序に与えられた自由はディストピア。理想郷には程遠い。檻に囚えられ抑圧された思考は反射的に理想郷を連想し、思考を止めた。  ──私の理想は何だ?  何がしたい、何を求めている。理想とは欲求であり最終到達点のはず。私は今、勇者の所有物として人の社会に組み込まれている。過程や現状の立ち位置を無視すれば、結果として勇者は私の意を汲んでいるのではないか。 「……一度話す必要があるな」  誰かに向けた訳ではない言葉だが、引かれた幕の端から覗く瞳には届いていた。