ーーアファナ連邦国家北方領最北端。 勇者の屋敷、執務室には書類の積まれた机に向かう男がいた。 床に付くほどに伸びた髪は1つに纏め、左目にはモノクル。 貴族に仕える執事のように整えられた執務服。 白い手袋を嵌めた男は頬杖をつきながら目を細め、羊皮紙に筆を走らせる。 この屋敷に来てから幾分の時間が経った。 生物とは不思議なもので魔族だろうと人間だろうと環境には適応できるらしい。 慣れた事務作業に淀みはなく、筆に躊躇いはない。 雑務は減ったとは言え、曲がりなりにも領地を持つ勇者。自身の上司とも言える筆頭領主にはある程度の報告義務が存在していた。 「商人の営業は面倒だが、出向かずに必要なものを発注できるのは便利なものだな」 商談を終えた勇者は執務室に戻ると、部屋の中央に誂えた応接用の立派なソファに腰を下ろす。 足を組み、両肘を背もたれに乗せると天を仰ぐように上を見上げ、一息をつく。 定期的に訪れる商人を初めは煩わしく思っていた勇者も今では有効に活用していた。 「収支を出せ。後回しにするな」 領地である以上、運営が出来ているかの報告は必要であった。しかしながら、これも勇者の功績により発生した事から形式上の計上でしかない。適当に済ませても何も言われないであろう財政を律儀にこなす魔王を、勇者は鼻で笑いながら手に持つ羊皮紙を持ち上げて振る。 「これが欲しいのか?」 「良いから早く寄越せ」 眉を寄せて不機嫌な表情を作ると筆を止め、モノクルを外そうとして勇者に止められた。 「執務中は取るなと言っただろう」 「何なのだ、このガラス板は。全く以て煩わしい」 さも不快だと言わんばかりに吐き捨てるが、魔王は大人しくモノクルから手を離した。この窮屈な格好にせよ、全て勇者が魔王を従者として扱うことを決めた際に誂えた物だった。勇者は一度席を立ち持参した羊皮紙を机に放ると、作業机に体を預ける、。 「しかし、魔王の癖に通貨の概念を持っているとは思わなかったぞ」 「……力を持つ魔族には不要だが、お前達のようにか弱い魔族も存在する。そういった者達は物々交換から人間の模倣を始め、独自の通貨を規定して流通させる事もある」 「思った以上に賢いものだが、まるで見て来た様な口振りだな。魔王の貴様には関係ないだろうに」 「そんな事はどうでもいい」 魔王は放り投げられた羊皮紙に目を通して人差し指でこめかみに触れる。 「何故こうも支出が嵩んでいる。先月より二割近く高い」 「交際費だろう? 私が形だけの領主となった今でも貴族が付き合いを持ちかけるのだ。断れるところは断るが、そう何度も断れん。先月に付き合いを断ったツケが回ってきただけの話だ」 「今回の商談もそうだ。何故こうも買い付けた」 「まとめて買うと安いからな」 「消費量を考えろ。私達しかいないのに、こんなに買ってどうする。品質が劣化するだろう」 「魔王の癖に所帯じみた事を言うな、貴様は」 「人間とはこうも適当なのか」 ため息をついた魔王は勇者の買付量を修正し、翌月の支出計画を勇者に放り投げる。次回商品を持ってきた際に買う量を減らせという指示だ。翌月の支出も財布の紐を緩める気はないと強気な計画を叩きつける。勇者も買付量に関してはどうでもいいのか、内容を検めずに作業机に机に放った。翌月の支出計画に目を通すと余剰資金、所謂貯金額を訂正して魔王に渡した。 「何故運用費を削ってまで余剰資金を確保して増資する?」 「必要だからだ」 「何を想定している?」 「その内わかる」 すげのない勇者の言葉に納得はできないが、訂正に合わせて修正する。それを見た勇者は顔をしかめた。 「厳しくないか?」 「今回、交際費が増したツケだ。バランスを取れるようにお前が調整しろ」 「……外交は私の仕事だ。仕方あるまい」 勇者はため息をつくと作業机から離れ、執務室を後にした。 慣れた作業を振り返り、改めて適応出来るものなのだと我が事ながら感心した。誰からも狙われず、誰かを倒すことのない日々。それはきっと、私に訪れた初めての平穏なのだろう。この日常も悪くはないと感じる私はきっと、魔王としては間違った存在なのだと思う。しかしながら私は檻の中の魔王、檻の中で自由にして何が悪い。住めば都というが、存外檻も住心地が良いものだ。 魔王は平穏の中で、心穏やかになれない財政に顔を歪めていた。