「勇者よ、どういう事だ」 「……どうもこうもない、私は人間だ。勇者として無理をしたツケが回ってきただけの話に過ぎない」 「なぜ言わなかった」 「……必要がない。言った所でどうもならん」 「市井を見ろ。お前よりも老けた人間など腐るほどいる」 「……個体差だ。早いか遅いかの違いで結果は変わらない」 「わかっていたのか?」 「……自分の体だ、私自身よくわかっている」 「医者にはかかったのか?」 「……何度か。結果はわかりきっていたがな」 「お前は私の秩序なのだろう?」 「……貴様もいい加減わかっていたのだろう。その刻印が子供騙しなことを」 「話を逸らすな」 「……あの時の貴様は愉快だったな。本当に自身の魔力が封印されたと思うとは」 「仕方あるまい、初めての事だ。よもや私自身、自分の魔力が感知できなくなるとは。勇者に封印したと言われれば信じざるを得まい」 「……そんな事は人間風情には出来ないよ。だが、魔力を失ったと勘違いした貴様は抵抗することもなく、魔法に長けた人間にも魔力を感知させなかった。なかなか便利な刻印だろう?」 「対象の魔力を自他共に感知できなくする刻印の意義がわからん」 「……そうだな、私にも今回の事以外で使用する場面が見い出せない。消してやろうか?」 「今更だ。そも感知できないだけであれば大した問題ではない」 「……そうか。まぁ、私との唯一の繋がりだ。後生大事に生きろ」 「主の命令であれば従おう。所詮私はお前の所有物だからな」 「……素直だな。後の手筈は手配済みだ、筆頭領主が済ませてくれる」 「あぁ、確認してある。この屋敷も領地も国に返還するのだろう?」 「……そうだ。貴様に関しても極一部の人間しか魔王とは知らない。国を上げた私の葬儀に紛れて国を出ろ。喜べ、貴様は自由だ」 「秩序が無ければ無法なのだろう」 「……貴様は私と過ごした数年を無駄にする気か」 「…………」 「今の貴様であれば私は必要ないだろう、好きに生きろ」 「……手筈では私は筆頭領主の元に帰属するはずだが?」 「馬鹿なことを言うな。私が死のうと貴様は私の物だ、私以外に縛られるなど認める訳がないだろう?」 「……人間とは我侭なものだ」 「一人の人間として世界を見ると良い。きっと楽しいぞ」 「……一人か。存外に寂しいものだな」 「そんな事はない。今後は今までと違い、私からの指示はない。自分で考えて生きるんだ」 「……大変そうだな」 「この数年、私の秩序の元で生きた貴様だ。人の社会については良くわかっただろう? これからは自分の秩序を以て、自由を謳歌しろ。それが私から貴様への最後の命令だ」 「……今際の際の言葉だ、聞き届けよう」 「なかなか楽しかったぞ、魔王」 「……あぁ。なかなか悪くなかったぞ、勇者よ」 数日後、勇者は醒めない夢の世界に沈んでいった。 勇者の寝顔を見たのは、その日が最初で最後となる。 人間はこうも安らかに永眠するものなのかと魔王は、どこか他人事のように感じていた。 便りを筆頭領主へ出してからは早い。 必要な事は筆頭領主が全てを整え、三日後には国を上げた葬式が始まっていた。 しかしながら腐っても勇者と言うべきか、奴は強かな人間であった。 昔、私は勇者に適当だと言った事があったが決してそんな事はない。 魔王は自分の死後に読めと言われていた羊皮紙に目を通しながら、ぼんやりと思考する。 今まで一度も金額を下げずに繰り越して増資し続けた余剰資金は最終報告通り、筆頭領主が端数も律儀に徴収した。 だが、それは勇者が筆頭領主へ提出する前に下方修正したものである。 常々勇者の行動に財政を悩まされたが、お陰で人間の社会には金銭が付いて回ることを痛い程理解できていた。 勇者は恐らく、私を自分の所有物とした時から今日の事を想定していたのだ。私が人間として生活する為の準備資金、当面の生活費。それが余剰資金の本当の目的であった。 最終的な総資産の凡そ四割に至る遺された余剰資金。 それらはいつの間に準備していたのか、世界各地に私の名義で拠点を購入し隠したらしい。なるほど、まさか私が世界を旅する準備まで済ませているとは死んでなお侮れないものだ。 魔王は拠点の場所を示す羊皮紙と、この屋敷に隠された僅かばかりの路銀を手にすると住み慣れた屋敷を後にする。 幸い今は国葬の真っ最中。 私の旅立ちを看過する深い闇に飲まれた新月。 夜目のきく私に明かりは不要。 例え監視がいたとしても、この闇の中私一人を見つける事はない。 ーーふむ、最寄りは西方領を越えた隣国か。 目的地を確認した魔王は闇の中を歩き出す。 今夜は天蓋から覗く瞳も存在しない。 勇者以外、誰も私の行方は辿れないだろう。 勇者という檻は果てが見えないほど広かった。 勇者という秩序は確かに私を拘束していた。 だが、それを悟らせない寛容さがそこにはあった。 恐らく今でさえ私は勇者に囚われている。 それでも私はこの数年学び解釈した私自身の秩序を以て自由を謳歌しよう。 ーーそう言えば、いつだか勇者と遠出をしたな。 釣りという行為は最初こそ楽しさが理解できなかった。奴が釣り上げてるのにも関わらず私には釣れない不条理さには腹が立った。だが帰る間際に釣った魚は大きかった。断然勇者の釣った魚よりも大きく、まさしく魔王である私に相応しい魚であった。あれは楽しかった。珍しく勇者も笑っていたな……。通り道だ、寄り道も悪くない。数年私の所有者であった人間に、労いを込めて魚を釣ってやろう。 自然と口元が緩む魔王は宵闇に溶けて消えていった。 手の甲に刻まれた刻印と、左目の煩わしいガラス板と共にーー。