ゆーれいちゃんがいない。 元より視認できない僕には空き教室以外でゆーれいちゃんを見つける事はできない。 教室の席も空いたまま。 ただ、誰も気にすることなく日常が過ぎていく。 先生も生徒も、誰もゆーれいちゃんがいない事を気にも止めない。 空き教室にもゆーれいちゃんはいない。 最初から学校に居なかったように、時間だけが過ぎていく。 ──あぁ、もう来週には夏休みだ。 ゆーれいちゃんの欠けた生活は僕を幽鬼のように変え、朧気な記憶だけで一日を積み上げる。 積み上げているのか崩れ落ちているのか、それすらもわからない曖昧な一日。 僕にとってはゆーれいちゃんと関わる事だけが明確な記憶であった。 あれから放課後は帰宅を促す放送が流れるまで空き教室で過ごした。 だが、ゆーれいちゃんは来ない。 よーかいちゃんは来ない。 時永先生は来ない。 僕がゆーれいちゃんと積み上げた同好会は砂の城の様に儚く崩れた。 いや、きっと僕は劇場の客席にいた観客だったのだ。 主演はゆーれいちゃん。 それに憧れた僕は客席から眩しい舞台を見上げていただけなのだ。 幕が引かれた舞台に立つ僕は役者ではない。 ただ一人、役もなく観客もいない舞台に立っている。 見渡す世界は奈落の底。 照明のない舞台は僕を闇に溶かしていく。 ただ一人の観客しかいない舞台の扉を開き、寺田先生が軽い挨拶をしながら入ってくると何事もないように椅子に座った。 「黄昏れてるね。今年が最後だし、今後についてもの想いにふけってたのかな」 「……寺田先生」 「なんだい?」 不思議と久しぶりに話した気がした。 曖昧に積み上げていた記憶が自分の立ち位置を明確に思い出し、意識が急浮上する。 「お久し振りです」 「そうかな? 同じ学校にいるんだけどね」 「ねぇ、先生」 「ん?」 「ゆーれいちゃん、知りませんか?」 「幽谷さん? 来てないの?」 先生は関知していない様で僕に聞き返す。 「どう……なんでしょう。最近見ていなくて」 「ふぅん、そうなんだ。僕も見てないなぁ」 「あの、よーかいちゃんは」 「犬飼さんも見てないよ」 「……時永先生はどうですか」 「そう言えば会ってないなぁ。休んでるのかな」 「ねぇ、先生。僕の話を聞いてくれますか?」 「悩み事? 一人で抱え込むと思い詰めちゃうよ。特に君たちみたいな思春期には」 柔らかい表情を浮かべる先生を見ると、僕の口は自然と開いていた。 「……よく3年もその状態でいられたね」 「信じてくれるんですか?」 「教師である前に僕もオカルトは好きだからね。それに──」 話しながらも頬を伝う涙を見て、嘘じゃない事は痛いほどに理解ができた。思い詰める生徒を前に、そんな事はありえないと否定はできない。 「僕に話したってことは何かしら助けが欲しかったんだよね。悩む子供を助けるのは大人の役目だよ」 「……ありが、とう……ございます」 「んー、でも困ったなぁ。流石に君が幽谷さんを見えないのは僕にはどうしようもできない」 「先生はゆーれいちゃん見えますか?」 「うん、見えるよ」 「ゆーれいちゃんってどんな感じの見た目ですか?」 「そうだなぁ、髪は黒くて肩より少し長いかな。周りと比べると少しだけ幼い顔立ちな気もするなぁ」 「……そうなんですね。見てみたいなぁ」 「幽谷さんは君に見えないって言われてから居なくなったんだよね」 「はい。怒らせてしまったみたいです」 「でもさ、怒ったとしてもずっと学校に来てないなんてあるかな? 今までも見えないけどクラスの人と遊んでるのとかはわかったんだよね? 来てるけど黙ってるだけとか」 「……確かにそれなら僕は気づけません。でも、誰も話しかける素振りもないし」 「学校に来てるかどうかは一旦置いておこうか」 寺田先生は一息つくと深く背もたれに体重を預けた。思案するように目を細め、口を閉ざす。僕はただ先生を見る事しかできず明確な意識の中、無為に時間を零していった。 「……君は隣町に行ったことある?」 「隣町ですか?」 意図のわからない質問に、記憶を遡らせる。 「何年か前に行ったきりですけど」 「幽谷さん、確か隣町に住んでたと思うんだ」 「そうなんですか?」 「前に時永先生と少し話したんだけど、その時に聞いたような気がするなぁ。もしかすると会えるかもしれないよ」 「知りませんでした」 「君はここでなら幽谷さんがいるかどうかわかったんだよね? それなら他の所でも気付ける場所があるかもしれないよ」 「………寺田先生、ありがとうございます。隣町に行ってみます」 「どういたしまして。ただ、明日にしてね。僕も一応先生だから、この時間から歩き回るのは止めないと」 椅子から立ち上がった先生は軽く腰をひねり、働くかとため息と共に吐き出す。 「それじゃあ建前も口にしたし、補導されないように着替えてから行きなよ」 じゃあね、と先生は舞台裏へと消えていった。 その背中を見て、僕も次の舞台の準備をするために家路につく。 今度こそは僕も舞台に立つ。 ゆーれいちゃんと一緒に──。
僕は寺田先生の言葉に従い、一度帰宅して着替えてから隣町へと向かった。僕の僅かな算段として帽子を深く被り顔を隠すように電車に乗る。これならきっと夜になっても声をかけられる事はないだろう。タイミングよく警邏中の警官に声を掛けられる事もそうないはずだ。ただ僕は、幽霊ちゃんの事を考えているうちに隣町の駅に立っていた。それは数年前に来たのが最後だったはずだが、存外にしっくりとくる街で自分が生活している街のような感覚に陥った。駅を出て街を歩く。目的地はわからないが、それでも足は目的地を知るように歩いていく。僕自身何処かに向かっているつもりはなかった。だが自然と足は進んだ。迷わずにたどり着いた家は根拠もなく、ユーレイちゃんの家だと僕は確信していた。呼び鈴を鳴らそうとして躊躇う。本当にユーレイちゃんの家なのだろうか。標識に目を落とすと確かに幽谷と書かれていた。そう多い苗字でもない。僕は少ない勇気を振り絞り呼び鈴を鳴らした。 僕からは何も聞こえない。呼び鈴の音が消えていない限りは誰かがいれば聞こえているはず。僕はもう一度呼び鈴を鳴らす。堪え性がないのか気が急いていたのか、体感的には1分程度で2回目の呼び鈴を鳴らした気がした。呼鈴が通電したのかプツっと音がする。 「はい」 その聞き慣れた声に言葉が詰まった。 「あの、えっと……」 「……ゆーくん?」 「うん。……ゆーれいちゃん、だよね」 「……うん」 「えっと……」 言葉が続かない。色々と話したいことはある。だか躊躇いが強かった。何を話そうか、何から切り出せばいいのか。色々と考えていたはずなのに、その全てがゆーれいちゃんの事を声を聞いただけで泡沫と消えた。カチャリと金属音が聞こえると、玄関の扉が開いた。 「……何」 「いや、えっと……」 以前見えない彼女は玄関の扉を開け、隙間からこちらを覗いているように感じられた。 「その、しばらく会ってなかった気がして……」 「……なにそれ、私に会いたかったの?」 「……うん」 会話の間が長い。たぶん普段とそんなに変わらない間の長さなのだろう。僕の気持ちが浮足立っているせいで体感的に間が長く感じているのだ。扉が閉まらない所を見ると、ゆーれいちゃんは僕の前にいてくれているはず。そう判断して僕は返事を待てずに口を開いていた。 「ゆーれいちゃん、この前はごめん。怒らせたかったわけじゃないんだ。ただ、その……見えないのは本当で……。今も見えてなくて……。でも、会いたかったのも本当で……」 ゆーれいちゃんは何も言わない。しかし、朧げながらに僕はその存在を感じていた。 「僕はもっとゆーれいちゃんと話したくて……。ゆーれいちゃんの事を自分の目で見たくて……。僕達ももう3年で残り半年くらいしか時間がなくて……」 そう、もう夏休みに入ってしまう。ここまで何も考えていなかった将来についても考えなければならない。その場しのぎで進学という体を取ってはいたが、僕が本当に学校を卒業する為には先に片付けなければならない問題が目の前に、3年近く前から、傍にあった。 「ゆーれいちゃん、僕は君の事が見えない。それでも僕はゆーれいちゃんともっと──」 キィと金属の擦れる音が言葉を遮った。僅かに扉が開いた事を認めると同時に彼女の存在が空気に希釈された。見えない彼女は僕の前から遠のいたのだ。しかし、扉が閉まることはない。それは中に招かれているのだと解釈した僕は恐る恐る扉のノブに手を掛けて家の中へ、敷居を跨ごうとして違和感に気がついた。気がついた瞬間、言いようのない不安が胸を締め付けて鼓動を早くした。 ──扉が開いている? どうやってここまで来た? 何も考えずに歩いた結果たどり着いた。 僕はゆーれいちゃんの家の場所を知っている? 寺田先生に隣町に住んでいるとしか聞いていない。 誰が玄関を開けた? ここはゆーれいちゃんの家だ。 僕は誰と話した? 間違えるわけがない、ゆーれいちゃんだ。 玄関の扉は開いたまま、ただ何かを待っているように思えた。
怪談の類でよく聞く話がある。 幽霊は自分からは扉や窓を開けて家の中へは入れない。 誰かが招くことで、中へ入ることができる。 中があるという事は外があるということだ。 内外があるのであれば境界も存在する。 その境界を踏み越えるために必要な行為が、相手に招き入れられることなのだ。 僕は今、外から中へ入ろうとしている。 玄関の扉で隔たれた境界を越えようとしている。 ゆーれいちゃんが開いた扉を潜ろうとしている。 彼女の起こしているはずの事象は何一つ認識できていなかった僕が、初めて声以外で認識できた事象。 あぁ、オカルト脳が恨めしい。 僕は今、この境界を超えるべきか躊躇いがあった。 あまりにも都合が良い流れに、僕は招かれたのだと否応なく理解させられていたからだ。 僕がゆーれいちゃんを探した結果辿り着いたのではない。 ──ゆーれいちゃんが僕をここへ招いたのだ。
心臓の鼓動が全身に響く。 玄関の扉に手をかけたまま、浅く呼吸を繰り返し自分を落ち着かせた。 これはきっと、ここまで問題を後回しにしてきたツケなのだ。 小さな嘘も嘘だと言えずに時間が立つと、今更嘘だと言えなくなる心境に近いかもしれない。 これは僕が前に進む為には必要な事だ。 自分に言い聞かせると、僕は力の入らない足で境界を超えた。 玄関で靴を脱ぐと上り框を跨いで廊下に立つ。 それは何の事はない普通の家であった。 しかし、さっきまでゆーれいちゃんが居たとは思えない伽藍洞。 足は自然と僕の理外を歩く。 始めて来たゆーれいちゃんの家は自宅の様に慣れ親しんだものに感じられ、迷うことなく階段を一歩一歩あがって行く。幾つか見える部屋の扉、ちょうど中程にある扉の前で僕の足は理外から立ち返って立ち止まった。 ここがゆーれいちゃんの部屋なのだろう。 玄関をくぐってからは妙に落ち着いていた。 入るまでにあった躊躇いや不安が薄れ、目の前にある扉を開くのが当たり前だと感じていた。今に思えば境界を超える前の不安は虫の知らせだったのだろう。 僕は頭の片隅では冷静に危機感を捉えていたが、脳内の大部分がぼやけており、柔らかい綿が危機感を弛く抑えているのを何となく理解していた。 僕は抗うことなく、誘われるままに、目の前のドアを開く。 躊躇いはなかったが動作は緩慢であった。 一つ一つの動作を確認するようにドアノブに手を置き、ノブを回し、ノブが回り切ったことを確認してから僅かにドアを引き寄せる。ドアはスムーズに開き音もない。引き寄せたドアを避けるように半歩位置を移動し、更にドアを開く。ようやく人が通れる隙間を確保したドアから手を離し、部屋へと一歩踏み出した。 入り口正面に設けられた窓が開いている。夕暮れ時ではあるが、まだ明るい外光に照らされ満足な明るさがあった。この部屋にたどり着くまで屋内という事もありどこか停滞した空気感を感じていたが、ドアを開けた途端に流れた空気が肌を撫でる。同時に白いレースのカーテンが揺らめいた。 初めて踏み入ったゆーれいちゃんの部屋。 どこにでもあるような個室にも関わらず、何故か僕はこの部屋に開放感を覚えていた。 「ねぇ、ドアくらい閉めてよ」 不意の声に僕は身体を強張らせる。 声は入り口から右側、綺麗に整えられたベッドの方から聞こえた。声に促されてドアを手早く締めてから、遅れて返事を返す。 「ん、ごめん」 「立ってないで適当に座ったら? そこの椅子とか」 恐らく窓を挟んでベッドの反対側にある勉強机の椅子を指しているのだろう。僕は平静を装ってベッド側に椅子向けると腰を下ろした。 「どう? わたしの部屋」 「何か思ったより普通だね。もっとオカルトっぽいものあると思ってたよ」 「なにそれー。私はもっぱらスマホが情報源なんだよー」 「うん、そっか。最近って学校には来てたの?」 「ゆーくんがいじめるからなぁ。私が居ても居なくても変わんないみたいだし、どっちだろうねー」 「少なくとも同好会の教室には来なかったよね」 「どーかなー」 「僕さ、ゆーれいちゃんは見えないけど一緒に活動したあの空き室限定で、ゆーれいちゃんが居るかわかるんだよね」 「なにそれ、ストーカーなの?」 「……違うよ」 「ほんとかなぁ、今日だって家に押しかけて来るしさぁ」 表情の分からない彼女の機嫌は声でしか判断できない。その声からは疑惑の色が見て取れた。 「それはごめん。でも、夏休み前にゆーれいちゃんと仲直りしておきたくて……」 「ふぅん。まぁ、いいよ。と言うか、別に怒ってないよ」 「ほんと?」 「ちょっとイラッとしたけど、ご飯食べて寝たらどうでも良くなっちゃった」 「じゃあ学校には来てたの?」 「うん。でも何かやる気なかったから寝てたかサボってたかな。ゆーくんと話すのが何となく気まずかったし」 「僕のせいなの?」 「そうだよ。留年したらゆーくんのせい」 「酷いなぁ」 本当に酷い。この約三年間で培ってきたゆーれいちゃんとの関係は、きっと終わる。そも声しか聞こえない相手と付き合ってきた自分を褒めたいくらいだ。それでも僕はこの関係が切れない様に、今もこうして食いついている。 開放された窓から穏やかに風が流れる。 目に見えない風ですら、白いレースを揺らす事で存在を主張していた。 風はゆーれいちゃん、白いレースは声。 僕からすれば、ゆーれいちゃんは風そのものであった。 だからこそ、何処へでも行きそうで怖い。 ゆーれいちゃんを見る事ができなくて怖い。 ゆーれいちゃんを捕まえる事ができなくて怖い。 僕の気持ちは、風には届かない。 誰もいないベッドを眺める。 ただのベットを眺める。 僕には何も認識できないが、きっとそこには僕にとって大切な物があるはずであった。 あると思い込んでいる。 その何もないベッドから不意に声が届いた。 「あ、そうだ。ゆーくん、机の一番上に何か黄色くて大きいのあるよね。それ中学校の卒業アルバムなんだけど見てみる? もしかしたら私の事見れるかもしれないよ?」 「見ていいの?」 「うん、いいよ。頑張って探して。私は文明の利器でオカルトめぐりしてるから見つけたら教えてね」 僕はゆーれいちゃんの言葉に従い黄色くて大きいものを手に取った。厚紙でできたケースからアルバムを抜き取る。アルバムは艶のあるフィルムで化粧された物であった。僕は1ページ目から順に読み勧めていく。幽谷なんて名字は多くない。クラス毎の卒業写真を後ろから見れば、すぐに名前があるかどうかは判別できた。だが、如何せん量が多い。ゆーれいちゃんの卒業校は市内でも最も学生が多い中学校である。同時に読み進める内に目につく行事の写真は僕自身の過去も想起させ、手を止めさせた。幾分時間はかかったが7割ほど進めた所で幽谷の名を見つけるに至る。窓から差し込む陽光は仄暗さを感じさせ、僕は無意識に顔を上げた。窓の外は宵闇が顔を出している。ゆーれいちゃんはその間一言も発していない。僕は幽谷の名前を改めて認識してから、名前の上にある顔写真に目を向けた。
その写真には彼女がいた。 初めて認識したゆーれいちゃん。 そのゆーれいちゃんを僕はよく知っていた。 セミロングの黒髪、どこか翳りのある瞳 、あどけなさの残る頬。 それは僕の知る中学生時代のゆーれいちゃんだった。 僕はゆーれいちゃんを知っている? 高校で初対面のはずだ。 なのに、何故か、姿の見えない彼女と……、僕が知らないはずの中学生の頃の彼女が符合していた。 僕は顔を上げてアルバムの中の彼女と見えない彼女を見比べる。 相変わらず彼女は見えない。 それでも僕は答え合わせをしようとアルバムとベッドを交互に見やる。 不意に耳元から声が聞こえ、身体が跳ねた。 「ねぇ、ゆーくん」 「──っ!! びっくりさせないでよ」 「えー、酷くない? 私見つけたみたいだから覗きに来ただけなのに、ゆーくん誰もいないベッド見てるし」 「だってベッドにいると思ったし」 「どう? 見れた?」 「うん、見れたよ。今まで全然見えなかったのに」 「前にしよーちゃんに撮ってもらわなかったっけ?」 「二人が遊んでたときね。撮ってるのは見たけど僕は見てないよ」 「ふぅん。ゆーくん、私の事撮りたい? 見えるかもよ?」 彼女の提案に逡巡する。 アルバムに落とした視線は、僕の真横に彼女がいると脳へと伝えていた。僕には見えていないものを脳が見えていると思い始め、その齟齬が気持ち悪い。僕の横にいるのはアルバムの中の彼女ではなく、そこから3年程年月を経た彼女だ。僕は前に進むためにここに来たのだ。過去の彼女では意味がない。一度スマホを手にするも、躊躇いが生まれ、僕の望む答えではないと手放した。 「えー、とんないのー?」 「とってほしいの?」 「今ならどこにいるか教えてあげるよ?」 「嘘つかれてもわかんないんだけど」 「信用ないなぁ」 「僕が見たいのは画面上のゆーれいちゃんじゃないんだ。ここにいるゆーれいちゃんが見たいんだよ」 「……ふぅん」 どこか含みのある言葉に促され、僕は声の方向を向いていた。 「なに」 「別に。よく言うなって思っただけ」 「どう言う事?」 「ゆーくんは私のこと好きだよね?」 「何さ、急に」 「好きでもない子の家に押しかけないよね? 本当は二人っきりになりたかったんだよね?」 耳元で、語りかける言葉でゆーれいちゃんは断言する。 「ここにいる私を見たいんだよね?」 「……うん」 「じゃあさ、ちゃんと見てよ。目を背けないで、私を見てよ」 頬に何かが触れているような仄かな熱を感じた。だがそれに力はなく、何となく熱を帯びているような曖昧な感覚。意識してようやく気付けるような些細な感触は、役に立たない視覚以上に確かにゆーれいちゃんを認識していた。 「……何が言いたいのさ。僕はゆーれいちゃんを見たくてここまで来たんだ。目を背けてなんていないよ」 「嘘つき」 淡白な言葉が、今までのどの言葉よりもはっきりと胸に刺さった。 「嘘つき」 それを理解した上でゆーれいちゃんは追い詰めるように言葉を重ねていく。 「嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき」 重なる言葉は僕の心拍に共鳴するように鼓動を強めていく。それはまるで嘘をついたことがバレて責められているような──。 「嘘つき」 最後の言葉が後頭部を殴りつけた。その瞬間、視界に何かが映る。人の輪郭を持った何か。顔を型どった何か。顔を黒く塗りつぶされた何か。穴のような何か。目も口も鼻もない何か。見えているのに見えない暗闇からは声だけが木霊する。 「あは、やっと見てくれた」 「うぁ……、え……、は?」 言葉にならない、理解が追いつかない。何も見えない暗闇が笑っている。 「やっと見た、やっと見た、やっと見た」 壊れたラジオのように同じ言葉を同じ調子で同じ感覚で繰り返す何かは明らかに異常であった。 「ゆ、ゆーれいちゃん……?」 「なぁに?」 粘つくようなガサつくような、今まで聞こえていた声と重なる二重音声が鼓膜を叩く。 「顔が……」 「やっと私を見たのに、まだしらばっくれるの? ちゃんと見て、思い出して」 「思い出す……?」 一体何を。ゆーれいちゃんはノイズ混じりの声で笑う。 「やっと、やっと。3年も、3年もかかった。でもこれで終わり」 ばつんと、ブレーカーが落ちる様に景色が暗転した。僕はゆーれいちゃんの部屋にいた。椅子に座っていた。だが座っている感覚がない。立っている感じでもない。ただ空間に漂うような曖昧さ。真っ暗になった世界はゆーれいちゃんの塗りつぶされた顔のように光がなく、全身を見られているような悪寒があった。 「んふ、この世界は私の世界、私だけの世界。私の愛しい幸せな世界」 「全部ぜぇんぶ、私の物。ゆーくん、私の部屋まで迷わずに来れたよね? だってゆーくんは私のものだもん」 「やだやだ、わかんないわかんない。なんでなんでなんで」 「何で誰も気付いてくれないの!? やめて、おじさん。落ち──」 「助けて」
──季節は春。 雪も溶け日差しが暖かくなった今日此頃。 僕は2回目の入学式を迎えていた。 壁にかけられた紅白幕、並べられたパイプ椅子。 僕だけの入学式。 あぁ、全部思い出した。 僕は虚空を睨めつける。 今の僕はゆーれいちゃんと同じ顔だろう。 今になって寺田先生が初めて空き教室に来たときの反応の意味がわかった。 あの時のみんなの反応の意味がわかった。 ここはゆーれいちゃんを囚える為の牢獄で寺田先生は監視役。 本来迎えられなかった高校生活を、牢獄に縛り付けることで創造した。 ゆーれいちゃんが囚われたからこそ、僕も此処にいる。 僕だけが此処にいる。 恐らく僕は寺田先生を含めた監視人から見れば予定外の存在で、だからこそ干渉してきたのだ。 それを考えるとゆーれいちゃんが居ないのに終わった高校生活がまた始まるのは異常事態のはず。 ぽつぽつと人が現れ始め、式場がざわつき始める。 ゆーれいちゃんが囚われた牢獄。 ゆーれいちゃんの為の世界。 ゆーれいちゃんを監視する為の箱庭。 ゆーれいちゃんが消えれば終わるはずの世界。 ここからは違う。 ゆーれいちゃんを解放する為に。 ゆーれいちゃんを囚えた奴に復讐する為に。 ここは深い奈落の底。 僕自身が餌であり監視人を引き摺り落とす落とし穴。 この奈落は僕の世界、ゆーれいちゃんと同じ様に存在しない三年間を繰り返す。 この幸せな牢獄が壊れるまで──。 気がつけば学生や教師も揃い、2度目の入学式が始まっていた。
薄暗く狭いオフィスで寺田はモニターを見て眉を顰めた。終わったはずの怪異が、三年前の入学式から改めて流れ始めたのだ。そこには顔が塗りつぶされて認識できない男子学生が一人、モニター越しにこちらを見ている。それはつまり創造した怪異が自分達の想定から外れて変質した事を指していた。モニターに映る男子学生は確実に自分を認識して、こちらを見ている。 「……やばいかも」 本来、今日でこの業務は終わる予定だった寺田は異常事態を報告する為に、局長へと内線を繋いだ。